特集コーナー

昭和大礼鹵簿模型

 昭和3年(1928)11月6日、昭和天皇は京都皇宮において即位礼・大嘗祭を執り行うため京都へ向け出発されました。このとき、宮城(皇居)から東京へ向かう鹵簿(ろぼ)(お列)は、含めて全長594メートルに達しました。昭和天皇記念館ではこの時の鹵簿のうち、賢所ご神体を奉安した御羽車から皇后御馬車までの部分、を縮尺1/12、全長約11メートルの模型で再現しています。


昭和大礼鹵簿模型
昭和大礼鹵簿模型
昭和大礼鹵簿模型
昭和大礼鹵簿模型

終戦

終戦の詔書(複製)
終戦の詔書(複製)

 昭和20年(1945)8月14日の正午前に開かれた御前会議において、昭和天皇の御聖断により、ポツダム宣言を受諾することが最終的に決まりました。その後、内閣において詔書案が審議され、午後9時20分、内閣から届けられた詔書にご署名、さらに午後11時過ぎよりマイクの前に立たれ、詔書ご朗読をレコードに録音されました。

 この夜、未明にかけて、戦争終結を阻止の目的でレコード盤を奪取しようとする一部軍人の反乱があり、宮城(皇居)は一時近衛兵に占拠されますが、レコード盤は無事守られ、日本放送協会に届けられ、予定どおり15日正午より、全国にラジオ放送されました。昭和天皇はこの時、御文庫附属室内の御休所で、ラジオから流れる放送をお聞きになりました。

 このコーナーでは、終戦の詔書(複製)、録音に使われたマイク、昭和天皇が放送をお聞きになられたポータブル・ラジオ(複製)などを展示しています。

戦後御巡幸

御召列車(昭和7年製作)を復元した模型
御召列車(昭和7年製作)の 内装を復元した模型
御召列車(昭和7年製作)の
内装を復元した模型

 戦後の地方巡幸は、昭和天皇のご希望ではじまり、昭和21年(1946)2月の神奈川県から、29年(1954)の北海道まで、総行程3300㎞、沖縄を除く全国に及びました。

 昭和天皇は巡幸先で病院、学校はじめ各所を精力的にまわられ、多くの国民と触れ合い、戦災者、遺家族、引揚者を慰問され、復興に携わる人々を励まされました。

 このコーナーでは、昭和天皇の戦後地方巡幸の主な訪問先と日程を日本地図と年表で紹介するとともに、当時使用された御召列車(昭和7年製作)の内装を復元した模型を展示しています。

全国植樹祭

全国植樹祭の様子

 全国植樹祭は、戦争で荒廃した国土に緑を取り戻すべく始まった国土緑化推進運動の中心的行事で、昭和天皇は昭和25年(1950)の山梨県から毎年臨席されていましたが、43年(1968)秋田県の大会は十勝沖地震のため行幸を中止され、皇居内で秋田杉の苗を鉢にお手植えになり、それが会場に運ばれました。また昭和最後となる63年(1988)香川県の大会では、ご病気のため皇太子殿下が御名代として妃殿下とともに臨席されました。

 このコーナーでは各大会での昭和天皇ご臨席の様子を写真にて紹介しています。

儀式用御椅子

儀式用御椅子
儀式用御椅子

 昭和28年(1953)から44年まで皇居仮宮殿にて使用された、儀式用御椅子を展示しています。

 平和条約発効翌年の昭和28年1月1日、「新年祝賀の儀」が天皇の国事行為としての儀式として初めて行われました。戦前の宮殿は戦災で焼失していたため、現在の宮内庁庁舎の一部を仮宮殿として儀式が行われ、その時期に用いられていた御椅子です。現在の新宮殿が完成し、新しい儀式用御椅子が用いられるようになったため、その役割を終え、現在は当館に展示しています。

関東大震災

山本内閣親任式の図(右)
山本内閣親任式の図(右)

 関東大震災は大正12年(1923)9月1日午前11時58分頃に発生しました。昭和天皇は当時皇太子、御父大正天皇がご病気のため、摂政として宮城(皇居)で執務されていましたが、安全な赤坂御用地内の御茶屋に避難されていました。

 このとき、前内閣総理大臣加藤友三郎は現職のまま8月24日病没、後任として山本権兵衛に組閣の大命が降され、組閣の準備中でした。すべての閣僚の人選は終っていませんでしたが、このような非常事態で政治の空白は許されず、急ぎ2日の夜、まだ停電が続き蝋燭の明かりしかない中、山本内閣の親任式が行われました。

国産御料車(ニッサン プリンス ロイヤル)

プリンス自動車が開発した国産初の御料車で、昭和42年(1967)から宮内庁に5台納入され、平成19年まで大役をつとめました。昭和天皇記念館では、そのうちの1台を展示しています。全長6.3m、全幅2.1m、全高1.8m、エンジンはV型8気筒6400cc。車名は、開発途中でプリンス自動車が日産自動車と合併したため「ニッサン プリンス ロイヤル」となりました。


ニッサン プリンス ロイヤル
ニッサン プリンス ロイヤル